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ウイーンかつての音の響き
春の復活祭から、5月になると芸術週間に入り、ウイーンは音楽の華となる。この街が、<音楽の都>と言われている所以も、取りも直さず、ハプスブルク家の皇帝たちが、音楽好きであったところからも、端を発している。
ちょうど、日本の皇室では、伝統的に和歌が詠める、という事が証であるが如く、ウイーンの王宮でも、王たちから臣下へと自然にたしなみとして展がっていった。三大バロック音楽王として、日本での江戸時代初期に当たる頃からの、フェルディナンド三世、その子のレオポルド一世、孫のヨーゼフ一世が名高い。
今でも、ラジオから皇帝たちの曲が流れる事があり、CDとなって発売もされている。ヨーゼフ一世の快活でリズミカルな動きのある明るさに比べ、その父、レオポルド一世の曲には、どこか憂愁が漂うが、何とも悠長でゆったりと、それだけに他の人が手を加えていない、という事が想像できる。お育ちがしのばれ、むしろ当時の宮廷が彷彿として来そうなメロディーだ。
いずれにしても、この伸びやかさ。作曲自体が王の慰めであり、まず好きで作っていた気持ちが伝わって来る。
国立図書館には、レオポルド一世の直筆譜も保管されているが、その人物と呼応するかのような譜面は、歴史的史実とは別の、<王の顔>、人となりが身近に感じられておもしろい。スペインから、輿入れして来た,姪のマルゲリータ(ウイーン美術史美術館の、ベラスケス描く、青い洋服の絵で知られている)との婚儀用に、A・チェスティが作曲した「黄金の林檎」が、公には、ウイーンで上演された最初のオペラで、実際には、王妃17歳の誕生日に際し、完成。5幕66場にも及ぶ、大スペクタルものだった。
さて、今と昔の楽器では、当然<響き>が異なっている。この3月31日が誕生日である、交響曲の父ヨーゼフ・ハイドン没後200年に合わせて、ウイーン学友協会のブラームスザールでは、3・4・5月とハイドン時代の楽器で、ハイドン作品が演奏される。という画期的なコンサートがあり、司会は、楽譜や楽器の研究家としても名高い、オットー・ビバ氏。
以前にも、ビバ氏の軽妙な解説により進行する会で、ベートーヴェン時代のもので聴いた事があったが、当時のホルンや、同時代であっても2社のハンマーフリューゲルで弾き分けての差が実感できる、興味深いものだった。私達が慣れ親しんで来た名曲も、当時は響きが違っていて、こういう表情のつけにくい楽器でどうやって音の陰影を出さねばならなかったか?。その時の演奏者、ゾーンライトナー氏は、抜群にこのニュアンスの付け方が上手く、その(妙>が味わえた。
現代のように改良され、音色、音量ともに豊かなピアノのない時代、今とは違ったテクニックが必要だったのではないだろうか?。すなわち、もっと<聴いて>いないと不可能だったかもしれない。今のピアニストたちも、いい楽器を求めるだけでなく、一度、こういう楽器で弾いてみると、また別方向から、音楽の創り方が、わかっていいように思う。
ハイドンの時代は当然、室内はろうそくであり、ろうそくの炎の揺らめく内での音の響き。その中で聴こえる、かそけき感じは、現代ではとても望むべくもないけれど、この明るさの差も大きい。
ハーモニーの中から音楽を創造してゆく。その<空間>を使ってのニュアンスを感知してゆく。という事が、その伝統のない私たち日本人は苦手かもしれないけれど、この空間から、<音色>が生まれ、作曲家や演奏者のイマジネーションと結び付いていった。という事も考慮すべきかもしれない。