ウィーン観光情報武田倫子の 「行った・見た・聴いた」指揮者アーノンクール氏との想い出1/2

指揮者アーノンクール氏との想い出1/2

 2006年度のモーツァルトイヤーに先立ち、その年の1月20日にザルツブルク祝祭劇場のリハーサル室にて、ニコラウス・アーノンクール氏に、<音楽について><モーツァルトについて>のインタヴューを願った。

 「音楽を最初に意識したのは2歳の頃で、父はピアノを弾き作曲もしていました。兄はヴァイオリンを、後に私もチェロを始め、家族でトリオやクワルテットを楽しんでいて、とにかく毎日、家中が音楽で溢れていましたから、むしろ、音楽ぬきには私の子ども時代を思い出すことが出来ないのです。とにかく父はベートーヴェン第一主義でしたので、他の作曲家と比較して、私自身はその当時、モーツァルトだから<どう>と言う、特別な捉え方はしていませんでしたね。

 ただ、第二次世界大戦後、当時私は19歳でしたが、「フィガロの結婚」、ケルビーノの1番目のアリアを聴いた時の事です。私の身体の中で何かが弾け、即座に、彼こそが天性の作曲家と確信し、モーツァルトの音楽がこのようなものであったのか、という衝撃のような震えが私の身体中を駆け巡ったのです。もちろん彼の音楽の魔力は、とても言葉では表せませんが、たった5和音で作られていてもモーツァルトはモーツァルトなのです。他の作曲家ではあり得ないものが存在しています。彼の音楽の持つ意味は、あまりにも深く、大きく、その才能に比すれば私達はその足元にも及びません。

 私達には両脚がありますよね。例えば、右脚を哲学・数学・語学。そして左脚をファンタジー・芸術としましょう。この両方で身体を支えているように、音楽にはすべてが含まれ、各々が不可欠なものです。音楽が私自身を作り、身体を形成しているようなものです。また、コンサートでは、鏡のように自分が、そして聴衆の心が投影して来ます。音楽という<鏡>を通して、私は人々に「「何を語るか」」という事を、常に考えているのです。」

 この年の夏、ザルツブルク音楽祭でのアーノンクール氏指揮による「フィガロの結婚」を実況生中継によりラジオで聴いた。ケルビーノのアリアは、氏が若い時に感じたその繊細な心のふるえがそのままに伝わり、新鮮であった。彼のポリシーの特徴でもある、伸縮自在なテンポがまた誠に粋でもあった。

 歳と共に完熟度が深まる大御所の、そして呼吸するように音楽がある人の、心の柔らかさを 垣間見る思いがして、ふと、厳寒の日にザルツブルクでお会いした時の、率直な素顔が蘇った。

2006年10月たけだのりこ
「指揮者アーノンクール氏との想い出」その1・その2は、2006年6月号の『家庭画報』に掲載した文章を加筆・訂正したものです。